この一ヵ月ほどの間に、
空や草木を眺めてボーッとしながら、ときにトイレでボケーっと座りながら、車を走らせながら、音楽を聴きながら、仕事でボルトをネジネジしながら、なにやら妄想しながら、突如ここにおっこちてきた言葉や誰からともなく聞こえてきた声達をメモしてきた。それらを一旦ここに置こうかと。
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他と比べたり、世の中の評価で自分を判断する必要がない。
他は無視して、自分の表現を突き詰める。
蔑ろにするという低次元。無視するという領域。
他を無視し、自己をもはらう、自他なき領域。
新しい曲というより、今ある曲(子供達)を大切に、育てていく。
不器用でもいいか。や、不器用の方がいいか。
虚飾は寒いか。無骨な方がいいか。
君ほど"狙った"ことが似合わない男はいないよ。
自然でいればいくらかマシだったのにってこと、よくあるだろ。
誰が聴いていようといなかろうと、虎視眈々と、気づけば世界中に浸透していくかのごとく、淡々と、奏で歌えばいいのね。
コマーシャリズムに主眼は置かず、しかしメインストリームにはしっかりと乗るのだという決意。
有名無名が、その人物の表現の深さ、音楽の素晴らしさに、一切関係がないことは肌身とこの耳で痛感している。
芸術とエンターテイメントの融合という難題。
期待を裏切らない、という裏切り。
音楽から引き出されるすべての感情が好きだし、尊いが、中でもとりわけ、寂寞とした哀しみや崇高な憂いのようなものが感じられる音楽に惹かれていく。
まだまだなのは当たり前だからまだまだだと口に出さないことにする。
口に出すのはまだまだなこと自分で気づいていますよ、という意思表示もしばしば含まれているから。それは低次元のエゴであり弱さな気がした。
楽しませるのも大切に。あとは響かせること。
一度発せられた音は空気を揺らして、感情から人となりまですべて伝えてしまう。一つのことを追求しているとあらゆることに通ずる知恵を学ぶ。僧が座禅で自己を見つめるように、僕は音楽で自己を見つめる。
何をやっても模倣に過ぎないのであれば、いっそ自然に倣うことに徹したいと思う。
真価のある芸術とは、模倣を通過し、越えた先のオリジナルな産物をさし、過去を破壊し、再構築することで生まれた新しいものこそが、次なる領域へ、地球上のあらゆる生命を導いてゆく。
誰が、他人になりたがってる人を見ていい気持ちになる?自分であればあるほどに人は魅力的なのではないの?
でも、人は変わり続けることもできる。変わろうともがく人もまた魅力的なのではないだろうか。
その狭間に日々葛藤する魂こそ、他の魂を揺さぶることができるのではないだろうか。
子供が逃げていくような音楽をやってるようではダメだ。
犬だってちゃんと聴いてる。大まじめにやりなさい。でも肩の力だけは抜いておいて。
心地よいものだけに囲まれるなんてまっぴらごめんだ。
違和感や摩擦のあるところにこそ、創作の息吹がかかる。
誰が見ていようといなかろうと、花は咲いて枯れるだけなので。
あなたミュージシャンっぽくないね。
それっぽくないことで、真の力が問われる、なんて言い聞かせる夜。
奇抜であったりすることが注目を集める世の中で、あえて平凡で素朴であることも一つの役割なのかなあ。
世の中が、奇抜なものや突飛なものを求めているとしても、君がそれに沿うことはない。君の無意識が望む表現が、なによりだ。それが評価されなくとも、注目を浴びなくとも。
無意識は繋がっている。
よって本当に無意識から生まれた表現ならば努力なくして伝播する。
おまえの歌は煙のようであらせよ。
立ち上がりは惑わず真っ直ぐに立ち昇り、くるくると渦を巻いて天に昇りきる前に空中に広がり消えゆく。
尊敬し信頼するミュージシャンより。
あなたの音楽はすこしでもぶつけてしまったら負け。
乱暴な音楽、聴いてよー!っていう一方的な声が漏れている音楽が、かっこよさとしては伝わるステージではないからこそ。
「蜘蛛の糸を引くような、繊細さやおおらかさが問われていて、でもその美しさが見せられたら、一気に世界を広げてくれる」ようなライブなのではないかなとおもいます。
スタイル
スタイルが固まらないうちは、人の意見や評価を善し悪しに関係なく受け取り、気にする。
スタイルが定まってくると、人の悪評や好評に左右されていては仕方ないと、自分はこれでいくのだ、これしかないのだと、良い意味で開き直り、ブレにくくなる。
交われど染まらず。
自分(土橋悠宇)の一流になればいい。
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