人間には、(おそらく他の動物より細やかな)感情というものがあります。
それが人間界のあらゆるドラマを生み出していて、苦もあれば楽もあるという一生を送ることになります。そしてそれは尊い。
それを”スパイス”だと思えるのは、人生で余裕のあるときか、器の大きい人か、修行を積んだ人でしょう。
今日は友人に聞いた話から考えたことをテーマに。
「なみだ」は漢字で、「涙」「泪」そして「涕」とあります。
それぞれの違いは軽く調べると出てきますが、あまり納得できないし、たいした説明になってないので持論を。
「涙」は恋人と別れた時や、勝負に負けたりして悔しいときなどに”流す”なみだ。
「泪」は目から流れている”なみだ”を物質的に表す漢字とします。
「涕」は親や兄弟と死別したときや、人生に絶望したときに”流れてくる”なみだ。
絶望する原因なんて人それぞれなので、フラれたりしたってある人は絶望もするでしょう。
でもここは冷徹になって、絶望を客観的に定義しておきます。(どこまでいっても主観が入り込むのは必至。覚悟の上で。)
例えば、
①外的要因によって陥った不幸な状況から生まれるもの。
(例:親の怠惰などが起因し、生まれた家庭が貧乏で大人になってもつきまとう借金などでにっちもさっちもいかなくなる。)
②後天的要因(事故や病)で身体の一部が不自由になることで感じるもの。(※あくまでも例えです。)
などでしょうか。他にもあるとは思いますが。
また、多くの作家や詩人が絶望し、自殺をしたりしますが、その原因は、多感で繊細で思考や熟慮しすぎるが故に湧いてきて逃れられないほど肥大した内的な憂鬱にあると思います。
どんなことがきっかけであれ、虚無感までいけば人は一度は絶望します。
なのでそれも含めると収拾がつきませんが、こんなところにしておきましょう。
話を「なみだ」に戻します。
最近、「涙活」という言葉を耳にしますが、「なんだそれ。」って思った方もいるでしょ。
活動中の方を攻撃するつもりはないです。多くの女性を的にまわすことになる。
それは危険だ。
でも嘘をついてまで付き合っていたいとも思わないし、それで音楽聴いてもらえなくなるからと自分のブログですら意見を言えないようではこの先苦しいですしね。
(念のため、これはあくまで私的意見で、あなたの意見を変える必要も攻撃されたと感じる必要もないです。)
とは言えとってもわかります。ストレス解消になる理屈も、それに惹かれる理由も。
でもそれは、皮肉な意味で現代風というか、滑稽に思えてなりません。
涙まで商売になる時代ですか。
今の地球上には、日本だけでも”涙さえ出ないほどの思い”をしている人が大勢いるのに。
原発事故以来苦しい思いを強いられてる人や、そのほか不慮の出来事に打ちひしがれてる人が沢山。
「甘えちゃいかんぞ。」と自分に言い聞かせます。
映画も、本も絵も写真も、あからさまな”お涙頂戴”には心を打たれず、むしろ意図が見えて興ざめ…。なんてほど冷静でもないんですが、そう感じるときは多いです。
むしろ淡々としたものに感動する。
その意味で、新藤兼人監督の「裸の島」などは心を打つ作品です。古い映画なんですが。
最後に、今日の記事をこのテーマにするきっかけとなった話を、手短に。
友人A氏が、そのまた友人B氏と二人で歩いているとき、B氏は言った。
「僕はね、病気でだんだん目が見えなくなってきているんだ。
だから君のこともいずれ完全に見えなくなってしまうかもしれない。」
A氏は少し涙ぐんだ。
それに気づいたB氏は、
「やめてくれよ。感情的なのはあまり好きじゃない。」と言った。
突然盲目になる告白をしておいてセンチメンタリズムを否定するなんて、なんて淡白。
いやこの場合は普通泣きそうになるでしょう。
でも”淡白さ”は一見冷酷に見えながら、”低俗な感傷”という概念があるとして、はたしてこのB氏のそれは薄情か、それとも高い精神性の賜物なのか。
そんなことを感じた今日でした。
夢を追って上手くいかない現実に泣く。とか、
一生懸命ぶつかった試合に負けて泣く。とか、
恋人と別れ裂かれる様な哀しみに泣く。とか、
足の小指を椅子にぶつけた痛みで泣く。とか、
それはそれで素敵な涙だよな。などと思いつつ。
今夜の一曲目。
Johnny Cash - 「Hurt」
https://youtu.be/vt1Pwfnh5pc
二曲目。
米津玄師 −「Lemon」
https://youtu.be/SX_ViT4Ra7k
今日も読んでくださりありがとうございました!
おやすみなさいませ〜zzZ
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