それがたとえば毛虫だったとしても。
- Yuma Dobashi Official
- 2018年5月18日
- 読了時間: 3分
「ためらっていてはかえって浮かばれぬ。思い切るんだ。」
僕はまだ動いている魚の腹に、包丁をの刃を刺し入れた。

「一寸の虫にも五分の魂」ということわざがある。
体長わずか一寸(約三センチメートル)の虫でさえ、その半分にあたる五分の魂があるという意味。弱者を侮ることへの戒めや、自分の意地を示すときなどに使う。
どんなに小さく弱い者でも、それ相応の意地や感情があり侮ってはいけない。
そして、その命もまた簡単に奪うことはためらわれるべきだ。と僕は思っている。
命の尊さ、他生命との共存共生、などといった学校の道徳で出てくるような言葉はどこかわざとらしい。
尊いに決まっているものをあえて言葉にすることに嫌気がさしたり胡散臭さを感じたりすることがあるのだ。
尊いに決まっていると書いたが、果たしてそうか。
と、当たり前すぎる善良な思想を疑ってかかり、破壊して、なおその答えに戻り着いた人の「命は尊い」にはしっかりと質感があるだろう。説得力があるだろう。

僕は26年間でそこまでの経験はしていない。
でも、命をやみくもに殺したりできなくなった。
なった、と過去形なのは、少年の頃はかなり残酷なこともしていたからだ。
「普通みんなやる」かどうかは知らないが、アマガエルや蟻を捕まえてはかなりひどいことをしたものだ。なぜそういうことをしたのか、動機は単純。好奇心だ。
サイコパスでもなんでもない。そういう経験はむしろ健常な少年なら少なからずあるのではないだろうか。(誰にもなければ明日から僕は避けられることになるだろう。)
(昨今、特に理由もなく人にそういう残忍なことをする大人は、おそらく、サイコパスか、こういう経験をしてこなかったのだろう。というのが僕の考えだ。)
おかげで、なのかはわからないが、青年以降の僕は自分で虫や魚を殺すことにひどくためらいを感じるようになった。
不慮であれ自分の手で殺生はしたくない。どんな小さな虫でさえも。
もう感覚的にできない。理屈で説明などはできない。
魚に関して言えば、食べるためにさばく、という経験も何度もした上で、その都度、簡単な想いを持ったことはなかった。きっとこれからも。
「ためらっていてはかえって浮かばれぬ。思い切るんだ。」
そう心の中でもう一人の僕が言った。思い切る。思いを断ち切る。
そこに重たさは必要ないのだ。命は生まれ続ける。
だから、「ありがとう!あんたの命いただくぜ!」くらいにして、美味しくいただくことにしている。
肉食はやめられないし、それは僕の代わりに誰かが殺してくれた命。あまり考えずに済む。
革製品は好きだから、買う。財布も、ベルトも、靴も革が好きだ。
これも誰かが殺してくれた命。常に身にまとうものにいちいち考え込むほど重たくもない。
ただ、今日も踏み潰された毛虫に心の中で軽く手を合わせた。
そしてこう言った(心の中で)。
「あばよ!!」
僕が優しいからとかそんな話がしたいわけではない。
これらは癖だ。僕はたいして優しくない。
本当に優しいのは、しとしとと肩に降りかかる雨だ。
それはあなたの涙を隠し、時に流し、多くの命を、奪うより育む。
そして何も言わない。(←ここ重要)
秋田は豪雨で大変なことになっているらしい。
多くの悲しみが生まれませんように。
雨についてはまた書きたい。

僕は明日も、踏まないように、無意識が意識をするだろう。
それがたとえば毛虫だったとしても。
今夜もたくさんの感謝を抱けることが何よりの、何よりの幸福。
明日は楽しみにしていたライブがある。頑張ろう。
今日も読んでいただきありがとうございました。おやすみなさい!
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