この世に、自分は存在する意味があるのか、そんなことを考えたことがある人は少なからずいると思う。
人間はなぜ生まれてきたのか。
あらゆる哲学が本気で考え、あらゆる宗教が説いたそれらの答えのうち、あなたが納得できたのはどれだろうか。
あるいはそのどれもが、あなたを救えなかっただろうか。
雲を眺めていた。
戦国時代も江戸時代も、奴隷船の時代も、アメリカ開拓の時代も、第一次世界大戦中も、恐竜が生きていた時代も、
どこかの空で、雲は素知らぬ顔で、悠々と流れていたのだろうか。
そんなことを思うと、人間はその空の下で、一体何を、なんの意味があって、色々な活動を行っているのだろうと、虚しくも、晴れ晴れしくもなった。
平和を願い、失意のうちに倒れた命になんの意味があったのだろうか。
己の欲望のみに従い、本望のうちに倒れた命とどんな違いがあるのだろうか。
自分がいなくなっても、世界は回り続ける。
果たしてそうだろうか。真偽が誰にわかるというのだろうか。
量子力学の世界では、月は、あなたが振り向くまでそこにあの形として存在していないと説く。
裏返して重ねられたトランプは、あなたがめくるまで、粒子がカオスの状態で存在し、一番上のカードは定まっていないのだと説明する。
自分がいなくなったときにも、あながあなたの目を通して観ていた世界は、依然存在し続けるのだろうか。
こちらが観ている世界と、あなたが観ている世界は重なっているだけで、別のものだということは万一にもないか。
仮にそうだとして
それは寂しいことだろうか。
虚しいことだろうか。
自分が存在する意味は、誰かがよく言うそれではないかもしれない。
そう問いたくなる状況に陥ったとき、
人は無理にでも意味を付けたくなる。
探しまわって、どれも腑に落ちなかったときは、
諦めるしかない。
まだ生きているのだから、そういうものなのだと。
意味などなくとも、納得するしかない。
なにかあるのだろう。いや、なくとも、なぜだか生きているんだなぁと。腑に落とすしかない。
そうやり過ごして、生きる方を選択するのだ。
そのときに見つからない答えは、流れる雲のように飄々と生き抜いていけば、いずれ見つかるかもしれないのだし。
なにをやっても雲は流れ
なにを歌っても世は移る
なにをやらぬでも雲は流れ
なにを歌わぬでも世は移る
だからなんだというのだ。
それでもこの目で見届けてやろうではないか。
この目で観てみようじゃないか。
己の命の行き着く先を。
Comentários