ある命の意味や意義について想いを巡らせることは、素敵なことだ。
たとえばそれは、カタツムリの命についてであったり、ミミズの命についてであったり。
彼らはなぜ生きているのか。どうして存在しているのか。
僕はその問いと同時に、こうも問わずにはいられない。
なぜ人間は生きるのか。どうして僕は生きているのか。
そこに理由も意義もないとするのは、あまり納得がいかない。何かが生きるということは複雑で神秘的で不可思議で非合理的すぎる。
たとえば"ミミズは土を綺麗にする。"
などは、存在理由ではない。よく言って、"存在する上での役割"程度だ。
"生まれてきたのには意味がある。"とよく言うが、
じゃあその意味ってなんだ。
僕は、意味なんかないんじゃないか。と反抗したくなるときがある。
意味がないと"やるせない"人間が、心の拠り所として、意味を見出そうとすることは、とても人間味のある行為だとは思う。
人は弱い。そしてある意味で人生は永い。
強い人やあまり気にしない人でも、どこかのタイミングで、何かの縁で、ふと考えることがあるのではないだろうか。
何のために生きているのだろう。
そう思うことは暗いことでも、考えても仕方のないことでもなんでもない。
これを嘲笑してはねのける人間がいるとすれば、それは明るいのではない。そんなのは陽気さではない。
勘違いしてはいけない。
生きとし生けるものは例外なくいずれ死ぬ。
生について考えないのは、逃避か麻痺か。
単純に、淡々と、想いを巡らせる。
ナメクジを見て、こいつは一体なんのために存在してるんだろうか。と思い、
ゴキブリなんてものが一体どうしているのだろうか。と思う。
魚は人間の食料になる。
虫たちは花を受粉させ、それはやがて野菜などになり人間の食料になる。
では、なぜ人間の食料が必要なのか。
人間が生きるための食料はなぜ必要なのか。
なぜ人間が生きる必要があるのか。
僕たちはつい人間中心に物事を考えがちだが、
なにかをフラットに考察するには、必ず前提を覆したり、疑ってかからねばならない。
そもそも人間を生かすために他の命が存在しているわけではないのだ。
その他の命の存在がもたらすサイクルの中に、首尾よく人間が入り込んでいるだけのことだ。
これは連鎖の話。
彼らにも、人間の存在が不思議に映ってるかもしれない。
あいつらはなんのために生きているのかと。
でも、僕たちからすれば、イモムシよ。ノソノソと朝から晩まで同じ葉っぱの上を行ったり来たりするだけのあなたの方がよほどなんのために生きているのか理解できないのだ。
また、こう問いたくなる。"蛾よ。街灯に寄ってたかって何を得ようとしているのか。何が楽しくて、あるいは悲しくてそんなことをしているのだ。"と。
なにが楽しくて生きているのか。
いや、楽しくもないのに、生まれたからとりあえず生きているだけなのかもしれない。
人間はある意味で賢いか。
求めもしないのに生まれたとしても、その中で、楽しみを見出すために色々な工夫を凝らせる。
意味を創り出し、意義を発見しようとする。
結局理屈ではわからないことが多いのだと思う。
頭で考えてるうちは答えは出ないのだ。
だからと言って、心だけで感じようとしても、
その心は頭と密接に繋がっている。
歴史上偉大な発見や発明の多くは
頭を研ぎ覚まし、心が研ぎ澄まされたとき、
考えに考え抜いたあげくダメだと手放したそのときに、
閃いていることが多い。
つまり、初めから考えないのがいいというわけではない。
何かにつけて、疑問を抱くことは、素敵なことだ。
そう言ったことを面倒くさがる風潮は古い。
中学生や高校生、大学生にこそ、そういう思索が必要ではないかと思う。
そうすれば、どうでもいいようでどうでもよくない"国家"としての日本はいい国になって行くのではないかと、そんな結論で今日は締めくくりたい。
互いが生きている意味などわからないまま、この先も多くの命とすれ違い、ときに交わりながら、僕もあなたも生きていくのだ。
今日は上司のひょんな発言からこの記事を書くに至った。
敬愛の念を込めて。
読んでくださりありがとうございました!
GOODなNightを。
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