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  • 執筆者の写真Yuma Dobashi Official

唄うだけ。



音楽について、これからの生き方について、考え方が変わってきたので、整理する意味も含めここに書いておきたい。


ここ最近、自分が生まれてきた意味は、音楽に"出逢う"ためだったと確信を持って思う。

人により、それは絵であったり、木工であったり、車であったり、色々だと思う。


僕がこの世に生まれたことにあえて意味や意義を求めるとすれば、それは音楽に出逢ったということだけで充分だと、心の底から思う。色んな音楽を沢山聴けるだけで充分だと。


音楽。それは鳥のさえずりであり、川のせせらぎであり、雲の流れることであり、街の雑踏でもある。パチンコ屋の騒音が人によっては音楽なのかもしれない。

答えや真理はわからないし、どうでもいい。それぞれでいい。


土のついた指で弾かれる錆びた弦の音や、ハーモニカの調べや、バケツやドラム缶から産み出されるグルーヴ、大聖堂に響き渡る聖歌も、大工のご機嫌な口笛も、喋るように歌う野鳥のコーラスも、入道雲の轟も、寂しげなピアノの音色も、台所から聴こえてくる鼻歌も、すべて音楽で、すべてそこら中にある。嘆きも怒りも喜びも愛も憎もある。

耳が聴こえない音楽家もいる。音楽は耳で聴くだけのものではないことも音楽の深さであり、面白味。


誰を知らないとか、誰を知ってるとかはあまり意味をなさない。グッとくるものは、いつだってそこに居てくれる。

出逢うタイミングはいつと決まったわけではないし、録音技術の進歩で、それらは時を超えて存在してくれる。

出逢うべきときに出逢う縁の不思議さに委ねればいい。

平成が終わろうと何世紀経とうと人類が滅びようと"音楽"は止まないだろう。


音楽にはもっと愛されたいし、音楽への愛情は深まるばかり。

音楽で食べて行くんだとか、プロだとかアマチュアだとかそういう議論も実はもうどちらでもいい。

もちろん、続けていったりもっと音楽に時間を費やしたりできるように腕は磨き続ける。でも何かのためにやることはない。やりたいからやるだけだ。好きだからやるだけ。色々ひっぺがすと誰かのためにとかも正直ないし、何を目指してとかも二の次三の次だ。


例えば誰かがおれの目を気にして生きている。それはあまり意味がない。あなたはあなたの歌を歌えばいい。

あなたの歌が、誰かの評価も気にする、という歌なら、否定はしないが、それはあまりイカした歌じゃないから少しアレンジ変えたらとは思う。

ダサくてもいいから、カッコいい歌を清々と歌ってくれと思う。歌おうよな。お互いに。と。

ダッさ〜と思われてるのに、本気でノッてるやつがかなりカッコいいっていう世界もある。それは紙一重だったりもするが。

これは自分への訓誡のようでもあり、迷う人への援歌でもある。


今は、人に認められるということよりも、自分が満足いくところまで、自分の表現を磨くことにしかあまり興味がないけど、うん、それでいいよ。と独り思う。

うまいかどうかなんてわからないところで、一人で勝負し、謳歌しているやつには敵うも敵わないもないのだ。


いかなる表現も、それぞれ違えば違うだけ面白いし、初めて見た、聴いた、感じた、その"初めて"の分だけ素晴らしいと思う。これぞ芸術だと思う。

と同時に、古くに遡ることもすごく刺激的だ。

それはなにより新鮮で。古いものがなにより新しく感じたりする。

だが、源流はやはり源流なのだ。

そしてその源流も何かの支流でありうると思う。


これらを自分の外に見つけたという感じはないが、ここを掘り起こすためのヒントやインスピレーションを与えてくれたミュージシャン、友達、恩師、芸術家、すれ違いの縁、にはとても感謝している。



ウグイスに、春だね、と話しかけた。しかとされた。いつものことだ。

彼らも歌い始めはヘタクソだけど、やっぱり春を感じて歌わずにはいられない。

そして、そこにこちらも春を感じる。

いい歌だなぁ、本当に。


何も音楽だけにとどまらない。

あなたはあなたの歌を、

おれはおれの歌を、

唄うだけ。



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