スマホは、情報が瞬時になんでも手に入る便利すぎるツールだ。
知識欲を含む様々な欲求は満たされる、はずだ。
しかし、読書のそれとは違う何か、畑での土いじりのそれとは違う何か、
虚しさのようなものを感じる時がある。
ストリーミングやCDで聴く音楽と、テープやレコードで聴く音楽の違いにも似ている。
情報量も、その広さもきっと数字的にはデジタル、インターネットが最強だ。
だが、活字でじんわり入り込んでくる知恵や、土いじりから学べることの質と密度は、スマホいじりやネットサーフィンでは絶対に得られない。
この世に生まれて1年くらい経った頃から、父と母は毎週のように僕を野山や湖畔に連れ、キャンプをしたりした。
それから僕が中学生になり、家族で出かけるのを少し嫌がるようになってからも、毎週のように自然のあるところへと出かけて行った。
それは海ではなく、山であることが多かったが。
そして一日中、ときには無計画に車中泊やなんかしながら丸二日、山を眺め、森を歩き、草原を走り回っていた。
そのためか僕には、都会の人なんかが田舎を指してよく言う、「なにもないとこだよ。」という感覚が根っからない。
「あるじゃん!すべてが!」と言いたくなる。
つまり、僕はどうあがいてもシティボーイにはなれない。
仮に僕がEDMやシティポップのような曲を書いたとしても、それは繕った姿にすぎない。
どれだけ上手くやったとしてもそれは本物ではない。
僕の懐には都会の洗練が沁みていないからだ。
ただし、自然のそれは確かに僕のものとしてある。
僕が雨を歌うとき、それは確かに僕が浴びてきた雨のことを歌っているし、
蝉を歌うときは、僕が聴いてきた轟くような合唱を想う。表現力とはまた別の話でだ。
同じ自然でも、海と共に生きていない。暮らしの中に海はほとんど関係してこなかった。
僕はサーフィンをやりたいという気持ちこそあれ、サーフやビーチやアイランドなものは醸し出せない。
本物とか偽物で、ある作品を評価するのはばかばかしい。
だけど、しいて判断基準を考えるとするなら、その人にとって本物かどうか。だと思う。
以前話題にした、写真芸術家の師匠にも、「自分の足元を歌うこと、それしかない。」と、何度も違う言い回しでそう教わった。
各々が、自分の足元を表現することで、各々の”本物”の表現が出来上がっていく。
僕にとってはそれが、雨であり、雪であり、雲、山、風、空、花、虫たち、森、なのだ。
これらは多くの人にとってそうであるがゆえに、その表現力を高めなければ一介の創作者で終わる。それを感じる感性も研いでいなければ鈍る。
僕は、都会の匂いも嫌いではないし、コンピューターで作られた音楽も好んで聴く。
だけど、僕にとっては、雨や土が真実であり、森の匂いが偽りや装飾から一番遠い物だ。
化粧なんか要らない。
僕が泥臭いかといえば、どうにもその表現は的を射ない。
泥臭いことの美しさは、ブルーハーツも歌ってくれていることだしここで突き詰めない。
白々しく”僕にとっては”、と書いてきたが、本当は誰にとってもそうなのではないか。
という思いがあって今日の記事を書き始めた。
人間は、アスファルトではなく、土の上を歩き、スマホではなく土をいじるべきだと、iPhoneが手放せない自分への戒めも込めて書いておきたかったのだ。
でも、これを書くにはインターネットが必要。
そしてこれを読んでくれているあなたにもスマホ/iPhoneやPC/Macが必要だ。
”ささやかな矛盾”は生きていく上で付き物なのだ。
最後に小話を一つ。
曲ができずに悶々としている僕に、父はよくこう言った。
「外に出て、樹の下でボーッとしてこい。」
良いメロディは、いつだって森の中に、風の音の中にある。
この世に絶対的な真実なんてきっとない。
けど、これは僕にとっての最高の真実だ。
今夜もどうもありがとうございました!
おやすみなさいzzZ。
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