この世は、どちらか一方がないと、存在できないもの、つまり二極がないと存在が確認できないもので溢れている。実はほとんど全てがそうである。
片割れがないと、それはただのそれであり、
それがただのそれであるということは、この地球上では存在として認識することが難しい。
例えば、"愛"。これは"憎"がないとなかなかに定義は難しい。憎しみがないということは、俗に言う無条件の愛、ということになるだろうか。
では果たして無条件の愛は、無関心や野放しとどう違うだろう。
"喧嘩"がなければ"仲直り"がないように、"座る"がなければ"立つ"がないように、常に何かの概念はその反対、あるいはその延長線上の異なる定義の存在によって成り立っている。
ある時、友人が言った。
月みたいな人が好きだと。
月みたいな人ってなんだ。
心の中で思った疑問にすぐ答えてくれた。
「太陽みたいな人は疲れる。」
根暗か!笑
心の中で入れたツッコミは聞こえてなかったようだが
その会話はここで終わった。
ツッコんでおいてなんだが、僕にはよくわかった。
月みたいな人が好き、というのも、太陽を知っていて、言えることだ。
僕は雨が好き。これは晴れの日があることを踏まえて雨の日はもっと好きだということ。
ここが仮に雨しか降らない星だったとしたら、雨を雨とも思わない。これが天気だ、と、これはこういうものだ、としか思わないだろう。
今この世に、これはそういうものだ、と理屈も説明もできない何かがあるとすれば、それにはそれを認知させる対象物がないからだ。だからそれは気づかれもしない何かだと思う。
一番わかりやすい例えは、光と闇。
光のただ中では光を光として認識できない。
闇の中では闇を認識できない。
想像してみるとわかる。真っ暗闇。なにも見えないとする。なにも知識がないとする。頭の中に光という概念すらないとするとわかりやすい。そこはただなんでもない空間。
そこに点が現れる。それは眩しい。そうすると、それはただなんでもない空間に現れた別の何か。
ここに二つの存在が発見され、こっちは何か、あっちは何か、と定義づけられる。
ここに光と闇が生まれる。
人を愛したとき、憎しみが生まれるのは、そういう仕組みなのだと思う。
憎しみや愛と言っても、大袈裟なものではない。
誰かを好きになったとき、その人の嫌いなところも見えだす。でもそれはだいたい許せたりする。("好き"は強い。)
平和を願うときに、行動に移すと、反対勢力を生み出す。それもそういう仕組みなのかなと思う。
だとしたら、黙って、畑仕事をしながら、平和を祈る、そんなお百姓さんたちの存在は尊いなと思ったりする。(だとすると"祈り"は強い。)
百姓にかぎらないけれど。
正直、月が好きというのはすごくよくわかる。
太陽も好き。でも月の方が好きだと思うときが多い。
それは、僕の心に、陰と陽の両極が、しっかりと存在してくれているからなのだと、ありがたく、窓から月の見える夜に思う。
そして、それはあなたの心にも必ずある。
月が好き。
みなさんはどちらが好きですか。
今夜そこからは月が見えておりますか。
こんな哲学的な夜も良い。
良い夢を!おやすみなさい🌛
P.S.今夜の一曲。The Dublinersというアイルランドのバンドのカバーで、アイルランドの女性シンガーSinead O'Connorによる「Molly Malone」を。
https://youtu.be/3ouqhCtIh2g
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