頭の中でぐるぐると飛び回り、捕まえては書き溜めていた文章をまとめてみました。
今年を振り返りながら、何度かに分けて記事にしていこうと思います。
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詞-ことば-
今でこそ、歌詞がいい、コラムがいい、などと言ってもらえることが増えてきたが、元々僕には文才がない。
人の歌を聴いてても歌詞は入ってこない。意識してないと入ってこない。いや、意識してても気がつけば音に気をとられている。だが、やはり入ってくる歌詞というのはある。自然に入ってくる歌詞に感動して、そこから盗み、自分の表現に生かす。だから入っていきやすい歌詞や文章が書けるようになっていく、ということもあるかもしれない。
ただ、僕は苦手意識が強すぎた反動で、小説や詩集をそれなりに読んだ。その中から、グッと来るものを研究し、グッと来る要素の共通点を見出し、自分の表現に生かす、という方法を取ってきた。でもやはりそこには"主観的な""グッと来るポイント"がつきまとうので、できるだけ、ある程度の人の評価を得た作品や、アンダーグラウンドでも一流と称される作家のものから盗むようにした。もともと王道路線にピンとくるのでそこに無理は感じなかった。
未だに歌詞を書くことには労をとるが、ここまでやってこれたのは、言葉での表現が好きだからなのだろう。
唄-うた-
今でこそ、歌いにきて、と呼んでもらえることが増えてきたが、元々僕には歌の才能がない。
歌は得てして、天性の才能がモノをいう世界だし、他の才能よりも特に"歌"は選ばれし魂達の特権だろう、くらい思ってきた。
誤解を生まないために。歌は本来は誰でもが歌えるし、その本質は自由なものだ。しかし、人が聴いて感動を生む歌を歌えるのはやっぱり"誰しもが"とはいかない。
また芸術に最低限の技術は必要かもしれないが、上手いだけではダメという逆説的かつ奥深い世界。ここで突出するには、「ナニカ」がなければいけない。
技術はどうにかしていくとしても、その「ナニカ」が自分にはあるか何年も問うてきた。いや、あれば問う必要などなかっただろう。ごちゃごちゃ考えず"やっちまえ"ばよかったのだから。
僕は自分の父親の勘の良さや審美眼みたいなものに信頼を置いている。その父親に、お前は歌じゃない。と常々諭されてきた。
あ、そうか。こっちじゃないのか、とその時点で納得こそすれどやめられない何かがあって今に至る。
他人の反応からもこう思ってしまう。本当に声や歌に魅力があれば今だって、もっと多くの人を振り向かせられるはずなのだと。
もし、好きこそ最たる才能であるというなら、僕には歌の才能があるといえる。それくらいめげずに、いや、やめることができずにやってきた。
"ヘタウマ"なる言葉が一つの意味を持つ称号となり得るなら、僕は"ヘタウマ"か?いや、ただのヘタ、だな。というのは自分の出した非常に客観的な評価だと思ってるし、別にだから落ち込むなどということも今更ない。
ともかく、僕の歌に「ナニカ」はないと思ってきた。これからも持つことになるのか、気づかぬうちにどこかのタイミングで得ることができ、すでに実は持っているのか、正直それはわからない。
自分がどれだけ客観的になっても、誰かは無いといい、誰かは有るというだろう。今となってはどちらでもいい。
僕はもう自分の歌を信じてるし、下手でも上手くても、勝手に評価してくれればいい、と思える次元で歌えるようになったのだから。
ちなみに今では父親も僕のCDを聴いてくれるようになった。
詰まるところ、理想は高い。理想ばかりは高いのだ。
だが、結局は、だからなに?と思いながらここまでやってきたのだ。
一見、分析と理屈vs情熱と本能の狭間でバランスを取ってるように見えても、続けて来れたのは、好きという才能のおかげだと思う。情熱と本能の勝利だ。
それに勝るものはない。
理屈や論理でやめられるならやめちゃえよ、というだけの話だったということ。
"好き"は全てを凌駕する。
"好き"には何も敵わない。
シンプルにそういうことなのではないかと思っているわけです。
今夜は以上です。
よいクリスマスを!
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