top of page
検索
執筆者の写真Yuma Dobashi Official

誰が為に。(たがために。)



誰かのためになることがしたい…。

中学生のとき、たしか全校生徒の前でこんなことを言ったのを覚えてます。

作文に書いた「将来の夢」がよほど道徳的だったのか、その時の担任の先生は発表者として僕を選びました。その先生のことは大好きだったので、素直に言うこと聞きました。嫌でしたけどね。


「けっ。」とか「綺麗事言っちゃって。」とか、ひどいと「偽善者め。」とか思ってるかもしれない人の存在も眼中にありつつ、そんなこと発表するのは気が引けます。

でもやるからには迷いなくやらないと、いじめられたりいじられたりしかねないと思い、

堂々と発表するよう意識した気がします。全校生徒は600人近くいた大きな学校です。(ちなみに小学校は約1,200人)色んな人がいます。


話し終えて、みんなのところへ戻ったとき、「じゃあおれにたくさんおごって。」って言ってきた彼も愛すべき人間。

そういうことちゃうやん。とツッコミつつ、ホッとした記憶があります。


おれ、なんで人のためになることを、なんて思ったのか。動機はなんなのかあまり覚えてません。たぶんそういう価値観で生きていたんだと思います。


でもある時、”なにかをする理由は、すべて自分のためだ。”という結論に辿り着きます。

誰かのためなんて格好だけつけて、自分に何か得があるに違いないと。

ナイチンゲールだってマハトマガンジーだってそうだったはずだと。

どんなことだってその人がしたくてしてるんだ。誰かのためではない。

彼らはそんなこと一言も言わなかったと思います。


そして今でも、かなり深い意味で、それは真実だと思っています。

理屈は安い。言うことは簡単。

なんのためにそれをするのかと聞かれたら、「やりたいから。」とだけ答えればいい。

理由なんてそれだけで十分だし、逆にそのほかにも理由があって色々言いたいのなら、

そこにパワーを感じられない気がする。


中学の時に言い放った内容は、結局自分がそうしたいからだったんだと思います。

だから綺麗事でもなんでもない。偽善者どころかエゴイスト。


でも、今、付け加えて思うのは、自分のやったことで誰かが幸せになってくれることはきっと誰にとっても嬉しいこと。おれはそれがしたいのだということです。


この前見た映画の最後の一文。ネタバレにもなってしまうので書きませんが、理屈じゃないんだ。って思い知らされました。

高尚で、小難しいのも立派な作品。だけど、おれが目指したいのはそれともまた違うような気がしてます。



幸せは、きっと誰かにしてもらうものじゃないんだけど、そのきっかけはあってもいい。

あなたにとってのそんなきっかけにおれはなりたいのです。

それから、苦しい人の救いになれたらとも。これはもっとハードル高いけど。


自分のためにやっている音楽も、本当に自分のためだけならライブをすることはない。

いつか誰かの幸せに、いつかあなたの救いになれば。という思いを抱きながら。


人と人との関係の中でこそ生まれる幸せや苦しみは、どちらか一方が与えるという考え方では成り立たないでしょう。

果たしてその輪っか(循環)には”はじまり”があるのやらないのやら。

あるのだとすれば、おれはそのはじまりを生み出せる一人の人間でありたいです。



今日もありがとうございました!!Good Night!!

(まだ寝ませんけどね!笑  では。zzZ...)


閲覧数:70回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Commenti


bottom of page